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Cry for the Moon

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 夕暮れの町並みを抜けて、ぼくは車を走らせていた。
 ビルとビルとの間から、細く光る三日月が見え隠れする。
  真昼の暑さもだいぶやわらいで、オープンカーでクルージングするには心地よい時間帯だ。
“生まれ変わった”ぼくがまず最初にしなければならなかっ たのは、年間のドライバー契約を破棄することだった。レース開催ごとに地方へ転戦したり、今週末はレースがあるからなどと悠長なことを言っていられる身分ではなくなった。
 土壇場でエントリーをキャンセルすれば、チームのみんなに多大な迷惑をかけることになる。だから最初からもうレースはやめる、 という選択しかなかった。
 当然のことながら、みんなかんかんだった。年齢制限を無視する超法規的措置を与えられてプロドライバーになったのも前代未聞なら、シーズン半ばでの突然の契約破棄もこれまた前代未聞だ。シーズン優勝も充分射程距離だっただけに、タイミングも最悪といえる。
 チー ムのお偉いさん方も、ぼくを脅したり、なだめすかしたりしながら理由を聞きだそうとし、引き止めにかかった。最後にはみんな諦め、サジを投げた。どうしてそこで性別が関わってくるのかは知らないが、『これだから女はだめなんだよ』とこれ見よがしに言われる。
 彼らはぼくにかけていた期待が大きかっ た分、裏切られた時の反動も大きいのだろう。彼らの失望した顔を見るのは辛かったし、ここまでやってきたスタッフの苦労のことを思うと申し訳なくて居た堪 れなかった。せめて、もっともらしい理由をでっち上げられれば良かったのだけれど、あいにく何も思い浮かばなかった。“命を懸けて走るのが怖くなったんです”とでも言えれば説得力があったのかもしれないが、どうしても自尊心がゆるさなかった。
 今日はぼくに国内A級ライセンスを発行してくれた連盟の事務所へ最後の挨拶に向かうところだった。会長はオフィスにいなかった。急用が出来た、ということだったが、その実ぼくの顔なんか見たくもないという事なのだろう。代わりに現れた副会長代理だかなんとかという初めて見る顔のおじさんは、ぼくの座っている応接室のソファの向かいに腰をかけた途端、ぼくの所業について延々とお説教を始めた。
 普通なら契約不履行で訴えられても仕方がないところだよ、大勢の人間が君一人の我儘のせいでどれほど迷惑していることか、お金持ちの道楽でレースに参加されては困るよ、我々が若い頃にはみんなもっと真剣に、真面目にレースに取り組んでいたものだがね……等々。
  ぼくが黙っているので彼は執拗に同じ話を繰り返した。そんな風では社会人として、人間として失格だよ、と言われた時にはさすがに顔を上げてしまった。
  よほどぼくは凶悪な顔つきをしていたのだろう、彼は黙り込んでしまった。それをいい事に早々と席を立った。ぼくのこれからの人生は以前にましてより一層刺激的なってしまったことをひしひしと感じた。
 玄関ホールを抜け、自動ドアを通りながら、もし世界の平和が守られてももう日本のレース界には復帰はできないな、と思った。
 建物の角を曲がろうとした時、後ろから呼び止められた。正面玄関から続く植え込みの影でぼくを待っていたようだった。 朴訥で人の良さそうな角張った顔をしたチームのメカニックの一人だ。ぼくのような年下の人間に話す時でもわざわざ帽子を脱いだ。
 彼は“どんな事情があるのか知らないけど、またきっと戻ってこいよな”と言った。
 街灯の下で、ぼくは彼と二言三言、言葉を交わした。彼の広い肩が夕闇に消えて 行くのを見送ってから、ぼくは建物の裏手の広い駐車場に向かった。
 都会の真ん中でなければ、もう星が輝きだす時間だった。この世界は回転軸のバランスを失わしめるような事件もなにも頓着無く、今なおその優美な軌道を回り続けている。
 確かに、この世界には守るべき価値があるよ。そう思っ た。
 駐車した車のライトシートには、みちるが待っていた。
「……はるか、何か言われた?」
 ぼくは肩をすくめて見せた。
  エンジンをかけ、シートベルトをしめて、ぼくは車をスタートさせる。
 ぼくはドライブしたいというみちるに、最初にクルマがいかに危険で問題だらけの乗り物であるかとうとうと説明した。オゾン層は壊すわ、人は轢くわ、貿易は摩擦させるわ、安眠は妨害するわ、道路は麻痺させるわ。そしてぼくが運転するのは立派な法律違反なんだぞ、と。
 するとみちるは、たおやかに共犯者の微笑みを浮かべる。
 みちるの方を見ると、風に髪をいたずらされていた。
 これからはいつもぼくの隣にはみちるがいて、目が合うと必ず微笑んでくれる。
 心の距離がだんだん近くなってくると、みちるがなかなかにお嬢様で、それに似合うわがままな部分を持ち合わせていることも分かってきた。といってもわがままの「加減」をちゃんと心得ていて、ぼくが本当に困るような事は決して言わない。だからついぼくもぶつぶつ言いながら彼女を迎えに車を走らせてしまったりする。それに、綺麗な女の子のわがままに振り回されるのは、ちょっとだけ楽しい。
 ぼくは今までずいぶんと色々なことに反抗してきた。
 常識やモラルに刃向かい、路線通りの月並みな生き方に異議申し立て、自己を確立してきた。
 これからもその姿勢は変わらないだろうし、変えられないだろう。ぼくを攻撃せずにはいられない人々も、尽きることはないだろう。
 けれど、この世でたった一人、みちるだけはぼくを背景ぐるみ、全肯定してくれる。
 だからぼくはみちるにだけは逆らわない。
 あの満月の夜、ぼく達は朝が来るまで静かにとりとめもなく語り合った。 ベッドに並んで横たわり、みちるはぬくもりが感じられる程度に、ぼくに寄り添っていた。言葉が途切れても打ち解けた沈黙が部屋の中に満ちた。
 ぼくがどんな事をしても必ず使命は果たそう、と言うと、みちるはぼくの指先に触れながら、私にはもう怖いものなど何もないと言う意味の言葉を小さく呟いた。
 ためらいも怯えも消えた。冷たい決断だけを残して。
 車は光の洪水のような首都高を飛ばしていた。
 少し遠回りをして、海岸沿いをまわって帰ることにした。
 風が吹いている。
 だがこの星の風じゃない。どこか別の場所、夜の遥かな高みを吹き渡る風だ。
 シフトレバーの上に置いた右手にみちるが手を重ねてきた。指先には心臓に直結した血管があって、そこから温かいものが心臓に流れ込んでくる。
 見上げると異国のナイフのように細く尖った三日月 が、夜空にひらめくように光っていた。
 『クライ・フォー・ザ・ムーン』の意味を知っているか、と聞くと、みちるは『ないものねだり』でしょう、 と答えた。
 ぼく達がこれからやろうとしている事は、月を欲しがって泣く子供のように不可能を求めることかもしれない。
 だがもうぼく達は走り出した。どんな運命が待っていようと恐れないし、後悔もしないだろう。
 いつか月が、ぼく達の願いを叶えてくれる日が来るかもしれない。








                                                END
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