善意の花
１ メヌエット
「ただいま」
はるかが帰ってきたことは、彼女の愛車の独特なエンジン音が静かな夜の通りの遠方から聞こえてきたときに分かっていた。
部屋のドアの開く音に振り返ってはるかの姿を見ると、おかえりなさい、と言う声が思わず喉にひっかかってしまった。
大きな薔薇の花束。
華やかな舞台の役者のように自然にそれを抱え、整った顔立ちに魅惑の笑みを浮かべたはるかが立っていた。意外性の名人。みちるの意表をつく天才が。
「おかえりなさい」
みちるはヴァイオリンを肩から降ろし、笑顔ではるかを迎えた。薔薇とはるか。美しい組み合わせだわ、と思った。
「どうしたの、その薔薇」
「もちろん、君にさ」
はるかは微笑んで花束をみちるに手渡そうとした。
白い花びらの一枚一枚に薄いピンクの縁取りがついている。白い薔薇の上からほんのちょっと
ピンクの染料を器用に吹きかけたような。ピンクから白へのグラデーションが見事だった。
見たことのない変わった品種だ。
みちるはあわててヴァイオリンと弓をテーブルに置くと、両手で花束を受けとった。受け取りながら、今日は何かの記念日だったり特別な意味のある日だったかしら？と考える。
はるかは誕生日やクリスマスに細かな配慮と周到な計画性で大袈裟なプレゼントを用意するようなことはあまりしないが、逆に気まぐれなインスピレーションに導かれて「君に似合うと思ったから」「おいしそうだったから」と決して安価ではない贈り物や手土産を買って帰ることがあった。
これもたぶんその類いのものなのだろう。
それにしても、今夜のこの良い香りのする大きなブーケはなにやら意味ありげに思える。
「ありがとう、はるか」
みちるは言った。
「でも、どうしたの？」
「気に入らない？」
はるかはコートを脱ぎながら微笑む。
「まさか」
みちるは改めてピンクの縁取りのある白い花の束を見つめた。
薄い花びらが幾重にも重なり、不思議な幾何学模様を作っている。神様の作った完璧な美しさ。唇状の花びらの官能的なひだは隠された中心部に神秘と充足があるような期待を抱かせた。
コーヒーメーカーのポットからカップにコーヒーを注いでいるはるかを目で追いながら
「ありがとう。嬉しいわ。すごく綺麗な花ね」
とみちるは言った。
湯気の立つコーヒーを口許に当てながらはるかは眉を上げて笑った。
「花は、神様の善意を信じさせる最高のあかし」
はるかがみちるの心を読んだように言った。
「え？」
「花の美しさのことさ。『ほかのすべてのもの、われわれの能力や欲望や食物はわれわれの生存のために絶対に必要なもの。だけどこの薔薇は余分なものだ。その香りもその色も人生の装飾であって必要条件じゃない。余分のものを与えるのは善意しかない―――』だってさ。何かに書いてあったよ」
ゆっくりとカップを傾けるはるかと薔薇の花をみちるは見比べた。
はるかも気まぐれな善意で、この花束を買ってきてくれたのだろうか。
「もしかして、花言葉かなにか？」
はるかが一瞬動きを止めた。
「花言葉？」
思いもよらなかったと言いたげな笑みで、ソファに腰掛けた。
「ぼくがそんな乙女っぽいことをすると思うのか？」
みちるは軽く肩をすくめると、飾棚から硝子製の大ぶりな花瓶を出して、薔薇を移し替える作業を始めた。はるかはしばらくそれを黙ってながめていた。
「その薔薇、『メヌエット』って言う品種なんだってさ。君にぴったりだと思って」
水切りを終えた花を花瓶に挿していたみちるが手を止める。
「メヌエット？」
ここ数日のあいだ、みちるはメヌエットばかりを弾いていた。今、はるかが帰ってくる直前にもベートーヴェンを弾いていた。その他のメヌエット――バッハ、モーツァルト、ラヴェル、ボッケリーニ、様々な作者の曲をあれこれ続けざまに取り替えては繰り返して。次のリサイタルはだいぶ先だったが、その公演には少々難解な曲をプログラムに入れる予定で、その曲に取り組むうちに少々行き詰まってしまった。気分転換と気持ちのリセットのためになにげなく簡単な練習曲を弾いてみたらそれが思いがけず楽しくなってしまい、メヌエットばかりを弾き続けた。
子供の頃によく弾いた懐かしい曲で、どれもゆったりと優しいリズムを持ち、心がなごんだ。
そのせいで、ここしばらくはるかに構ってあげてなかったかもしれない、とみちるは気付いた。
はるかは同じ部屋でソファに寝たり本を読んだりしていたけれど。似たような曲ばかりで聴いてて飽きない？と尋ねたら、ワルツを踊りたくなるような優雅な気分になるよ、と笑っていた。
それは昨日のことだったかしら？ それとも一昨日？
はるかはみちるがヴァイオリンや絵を描く事に集中しているときに邪魔をしてくることは決してしない。それもあってここ何日かははるかと向き合うよりヴァイオリンと対話している時間の方がずっと長かった。スキンシップも眠る前に軽く唇を合わせるくらいだった。
みちるは薔薇の花たちを見つめた。
はるかに貰ったからそう思うのかもしれないが、やはり少し官能的だ。
ソファでくつろぐはるかに目をやる。
つまり、ここに含まれているのは「君に放っておかれても文句も言わず、花を贈るぼくは気が利くし、優しいだろ？ そんなぼくをもう少しかまってくれてもいいんじゃない？」という無言のメッセージだ。
もしかしたらはるか本人が自覚していないかもしれない欲求まで正確に読みとって、みちるはヴァイオリンをケースに丁寧に仕舞った。
「仕舞っちゃうのか？」
はるかに手を差しのべて、みちるは言った。
「バスルームへ行きましょう。綺麗なプレゼントのお礼に、今夜は私が洗ってあげる」
はるかは飲んでいたコーヒーで軽くむせた。