Cry for the Moon
2
季節は春から夏へ移行しようとしていた。空は晴れて、木々の緑が眩しかった。それはいつもとなんら変わることのない、ありふれた一日だった。
その日突然、まるで妖精のような思いがけなさで、彼女はぼくの前に現れた。
陸上競技大会に出場して、百メートルを走り終えた後のことだった。どうしようもない虚無感を覚えて、もう走るのはこれきりにしようと考えながら帰り仕度をしていると、隣のコースを走っていたエルザ・グレイという少女がぼくに声をかけてきた。エルザは紹介したい娘がいる、と言った。
エルザに呼ばれて現れた彼女は、淡いブルーの衿に白いラインの入った清楚なセーラー服を着て、スケッチブックを抱えていた。
記憶が一枚、ひらりと閃くように落ちてきた。
「海王みちるよ」
そんなバカな、あれは夢だ。
夢のはずだ。
心臓の音がうるさく邪魔をして、彼女のことを説明しているエルザ・グレイの言葉が頭の中に染み込んでいくのに時間がかかる。
彼女はぼくの方に歩み寄った。
「あなた、汗ひとつかいてないのね。かなり力を抑えてるんじゃなくて?」
「どういうこと?」
ぼくはなんとなく笑ってしまった。声も確かに聞き覚えがあった。まったくの初対面だというのに。
ただ、記憶の切れ端と目の前に立っている彼女はほんの少し違和感があった。それがなんなのかは分からない。
突然、彼女は言った。
「あなた…… 風の騒ぐ声が聞こえるんじゃない?」
思いがけない一撃だった。
油断していたぼくは顔がこわばるのを感じた。体がカッと熱くなった。
「ヘンな奴」
ぼくはバッグを持ち上げ、できるだけなんでもないような顔を作りながら言った。
「で? ぼくになんの用があるって?」
絵のモデルになって下さらない?と彼女は言った。
ぼくは断り、彼女にキッパリと背を向けた。
なんということのない、ありふれた初夏の一日のはずだった。
だが、彼女はぼくの前に現れた。ぼくの宿命を告げに。
それはまったく予期せぬ出来事で、ぼくは彼女と視線を交わしたあの数秒間の意味を上手くつかめずにいたのだ。
冷静さを取り戻すと、怒りが少しずつこみ上げてきた。
破滅の幻影。
あれは夢だ。そう思い込むことで何とか平静を保ってきたぼくの世界を、彼女は一瞬で打ち砕いた。血の通う肉体を持って、現実に現れることによって。
『あなたが戦士である事を、私は知っているのよ……』
そう、彼女は告げたのだ。
だから何だ。心の中の声が言った。
あの幻影はもしかしたら夢ではないのかもしれない。沈黙は、明日にでもやってくるのかもしれない。
だがそれが何だ。世界など地獄へ行っちまおうとぼくの知ったことか。
もう二度と彼女には会いたくない。そう思った。