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Cry for the Moon

3



 だが、そんなわけにはいかなかった。
 ある日、ぼくのもとに東京湾を一周する豪華客船のディナー・クルーズのチケットが郵送されてきた。
 差出人の名前はない。大仰な封筒を開けてみると、中から凝った装飾がデザインされた招待状が出てきた。驚いたことに羊皮紙でできていた。
 すぐにピンときた。
 彼女だ。海王みちる。
 実際、ぼくの内側では彼女に対する好奇心と、もう目の前に現れてほしくないと願う裏腹な不安感が両方同じように増幅してせめぎ合っていた。
 チケットだけを送り付けて来るというのはどういう事かとしばらく考えた。来て欲しいと心から願いつつも、手紙になんと綴ればいいのか分からずチケットだけになってしまったのか。それともぼくが彼女に関心を抱いていることに薄々気付いていて、ちらりと気のある素振りを見せれば喜んでのこのこ出掛けて行くとでも思っているのだろうか。
 だいだいぼくの立場からいえば、レーサーとしての自分に投資を考えているスポンサー関係からの御招待かと考えるのがスジだというのに、真っ先に彼女の名前が頭に浮かんでしまったことも口惜しい。
 誰が行くか。
 ぼくはそのチケットをごみ箱に捨てた。









 ………実にいまいましい事だが、結局好奇心に負けた。
 日が沈む前にそのクルーズは始まった。
 充実した設備、洗練されたサービス、一流を愛する人々のために企画された贅沢なナイトクルーズだ。船の気取った名前も、フォーマルな社交場も、綺麗に着飾り上品に談笑している人々もぼくは決して嫌いではなかったけれど、今日はそれを楽しむほど陽気な気分にはなれなかった。
 唯一の救いは船上から眺める夜景の美しさだ。夜の闇の向こうに東京ベイのネオンが輝き、背景となる夜の漆黒に光は溶けてゆったりと揺らめく。船はスタビライザー等の揺れ防止技術が投入されているおかげで、不快な揺れはほとんど無い。水平線には灯台の灯が光り、羽田空港に降りる飛行機の赤い灯が点滅する。大小の船がうす暗い海上に白い航跡を残して絶え間なく行き交う。都会の雑踏を遠く離れ、波の音しか聞こえない。
 メインレストランで豪勢なディナーが始まったが、ぼくはプロムナードデッキに残った。海の上の澄んだ空気を吸って待つうちに、船の最上階にある展望抜群のビスタラウンジでピアノの演奏が始まった。テーブルでは盛装した客たちがデザートやカクテルを口に運びながら、ロマンティックな夏の夜を楽しんでいる。
 ぼくが空いているテーブルに着くと、ボーイがやって来て頼みもしないソフトドリンクを置いていった。招待客へのサービスという事らしい。
 やがて、彼女がステージに現れた。バイオリンを持ち、細身の体を白いドレスに包んでいる。スカートを片手で少し持ち上げて、聴衆に軽く会釈するとバイオリンを構えた。スッと目が閉じられると、静かに音楽が流れ出した。
 ガブリエル・フォーレの『夢のあとに』だ。
 並々ならぬバイオリンの才能だ、と素直に思った。甘美な哀愁に満ちた旋律が、高く低く響き渡る。
 ぼくはじっと彼女のことを見つめていた。
 今日はわざわざ彼女のバイオリンを聴きに来たわけではない。この前は不意打ちを食らって動揺したけれど、今夜は落ち着いて彼女を観察してやろういうつもりだった。
 彼女は……ご当人のバイオリンの調べどころではない、可憐な美貌の持ち主だった。“すべての人間は平等に生まれてくる”という言葉の誤りを、身をもって証明している。まだ中学生だというのに大きくなったら美人になりそうだ、という段階はもうすでに通り越してしまっていた。おとなしやかで涼しげで、姿勢も、白くなめらかな額も美しい。清らかだけれどほんの少しの高慢不遜さをのぞかせた貴族のような顔をしている。
 グラウンドで制服を着て立っているよりも、こういった雰囲気の場所の方がずっとお似合いで、今も憎らしいほど落ち着き払ってバイオリンを思うまま操っている。
 その妙なる調べを聴きながら思った。バイオリンを弾く技術を手首や腕に習得させるためにはふつう長年の刻苦勉励が必要だ。そしてそれ以前にバイオリンやビオラには楽器を『支える』ための習練がいると聞いたことがある。演奏者がまずしなければならないのは楽器を持ち、支えることだ。下顎だけでは支えられない。顎と肩の間で支える時の顎の力は数キログラムに及ぶ……という。妙なる楽音旋律の彼方で、顎やら奥歯やらがぐっと力を振り絞っているのだ。
 海王みちるを見ていると、そんな話はとても信じられない。奥歯を噛み締めている素振りなど露ほども感じさせず、まるで生まれた時からその楽器の扱い方を心得ていたかのように軽やかで、音はとろける様に流れ出してくる。
 見てくれの綺麗さといい、音楽や絵の才能といい、それが天賦の才という神の贈り物なら、神様も彼女にはずいぶんと大盤振舞いをしたものだ。
 曲は何曲目かに入っていた。
「あの子が海王みちるだよ」
「とても中学生には見えないわ」
 近くのテーブルで交わされる会話が耳に入ってくる。
「あまり友達は作らないらしいよ」
「どうしてかしら? 素敵な娘なのに」
「人嫌いだって聞くけど……」
 演奏の途中だったがぼくは構わず席を立った。飲み物にも一切手を付けないままテーブルを離れた。


 帰りたくても、もちろん航行中は下船するわけにいかない。ぼくは再び甲板へ出た。船尾のデッキで手摺りに身を持たせ掛けた。
 無性に、どうしようも無いくらいに腹立たしかった。
 彼女の落ち着いた優雅な振る舞いが気に入らなかった。
 戦士としての過酷な宿命を背負っているはずの彼女は、少しも取り乱すことなく、この世に心配事などなにひとつ無いという平然とした態度でバイオリンを弾く。
 初めて会った時も、ぼくが戦士だと分かっていながら社交辞令のような物言いをした。
 同じ宿命を持って生まれて来たのだから、我々は共に戦わなければと、そう告げるべきじゃないのか。それを絵のモデルになれだって? ふざけるな。
 遥か下方の水面で船体に弾かれた波が闇に白く浮かび、長い航跡となって後方へと続いていた。目を上げると、ガラス細工に光を当てたような街の明かりが楽しげに瞬いている。
 遠く、ひときわ明るく東京タワーが見えた。赤やオレンジのライトを輝かせ、非現実的なほど美しかった。あの明かりの下で何万人もの人間が笑ったり泣いたりして暮らしているとは信じられなかった。世界の終わりも、やがて襲い来る沈黙も、何も知ることのない幸福な人々が。
 ぼくは自分に課せられた使命を自覚してはいる。三つのタリスマンを探し出し、聖杯を手に入れること。
 そして、その聖杯を扱うことの出来る“メシア”だけが、この世界を救うことができるのだ。
 タリスマンはピュアな心の結晶の中に隠されている。そして、タリスマンを抜き取られた人間は死ぬ。世界平和のための、尊い犠牲というわけだ。
 タリスマンと共に、その人間から命まで奪う役目をぼくは担っている。
 生け贄の羊を探し出し、その喉を切り裂く……世界を守るためなんだ、と自分に言い聞かせながら。
 恐怖と罪悪感が全身を駆けめぐった。吐き気さえ覚えた。世界を救うためにお前が死ね、と言われる方がまだましだ。運命は、忌まわしくて残忍な、まさか自分がするはずのないと思っていた事をぼくに強要する。
 やってられない、と思った。
 使命を拒絶したとしても、誰がぼくを責められよう。結果として、世界を破滅の淵に引きずり込んだとしてもだ。
 やがて来るはずの沈黙はぼくのせいではないのだから。

 船体のあとに忠実に続く航跡が曲線を描き出し、船が大きくカーブしているのが分かった。
 竹芝桟橋が近づき、両側で各種船舶のライトが優美にたゆたっているのが見えた。東の空に浮かぶ満月が上空の湾をつなぐ巨大なブリッジに隠れ、また現れる。
 ぼくはデッキを離れた。
 レセプションホールへ向かおうと、甲板から屋内へ戻り、その途中でひとけの無い階段を通った。吹き抜けになっていて、足が沈むほど毛足の長いカーペットが敷きつめてある。
 階段の途中で足を止めた。
 側面の壁一杯に巨大な油絵が掛かっている。ぼくは肩のあたりに震えが走るのを感じた。
 それは滅亡の絵だった。
 この贅を尽くした美しい客船の壁を飾るにはまるで相応しくない、絶望と終局性が塗り込められた絵だった。ぼくはあの悪夢の中と同じ空気の匂いを感じた。断末魔の叫び声を、ビルの倒壊音を聞いた。巨大な津波が死のように街に覆い被さろうとしている。
 沈黙が迫ってくる。彼らは災い、彼らは死。地上を満たし、大空から降りかかる……。
「お気に召したかしら?」
 下方の踊り場から声が響いた。
「今夜はようこそおいで下さいました。天才レーサー、天王はるかさん」
 ぼくは静かに深呼吸した。落ち着きのあるだが芯の強そうな声で、彼女はくだらない事を喋っていた。
「ずいぶん詳しく、ぼくのことを知っているんだな……」
 顔は絵に向けたまま、ぼくは皮肉を込めて言った。
「虫一匹殺せないようなお嬢様が、よくこんな恐ろしい空想画を描けるもんだ」
「空想じゃないわ」
 素早く、彼女の緊張した声が返って来た。
「私にはそれがはっきり見えるの――― あなたと同じようにね」
 甲板で潮風に吹かれながらやっと押さえつけた荒々しいものが、またぼくの内側から湧き上がってきた。
 どうしようもないほどの、怒り。
 あの破滅の幻影を、こんな風に自らの手で再現しようだなんて、狂気じみていると思った。これほど巨大なキャンバスを埋めるのに、どれ程の時間がかかるのかは知らない。一週間やそこらで出来上がるとも思えない。その間ずっとこの世界の終末と向かい合っているなど、ぼくには到底正気の沙汰とは思えなかった。それは心の中の痛みを弄ぶような自虐的な行為なのか、それともぼくがあの悪夢によって引き起こされる痺れるような恐怖を、彼女は同じように感じる事がないのか。だからこんなふざけた真似が出来るのか。どちらにしても腹立たしいことに変わりはない。
 ぼくは彼女に目を向けた。踊り場の縁に腰掛けていた彼女も立ち上がって、ぼくと真っ直ぐに向き合った。白いドレスが赤い絨毯に映えている。
「ばからしい」
 吐いて捨てるように言った。 
 彼女の何もかもが気に入らなかった。彼女の大人びた美しさも、落ち着いた優雅な態度も、絵や音楽の才能も、戦士としてのぼくに興味を向けている素振りも、何もかも全部だ。
「前世の記憶も世界の終末もぼくには関係ない。誰かがやらなければならないなら、君がやればいいさ! ぼくの事を勝手に調べるのはやめてもらいたいな」
 拒絶の言葉を彼女にぶつけた。
 令嬢は俯いていた。
「勝手なことを……言わないで」
 意外にも怒りを押し殺したような声が返ってきた。
「私だってごめんだわ。私にだってバイオリニストになるって夢があるもの」
 抑えられた口調の底から、にじみ出てくるものがあった。そして顔を上げるとぼくに向かって叫んだ。
「世界を破滅から救うなんてばかばかしいこと、やってられないわ!」
 しばらくの間、ぼくと彼女は階段の上と下で睨み合っていた。彼女の鋭い眼差しは、危ない緊張感を孕んで彼女の美しさを支えていた。
 やがてぼくは視線を外し、階段を下り始めた。
 彼女もぼくから顔をそむけていた。
 彼女の横を通り過ぎるときも、ぼくは歩調を崩さなかった。階段を下り、船から降りるためのゲートへ向かう。一度も振り返ることなく。
 本当は駆け出してその場から早く立ち去りたかった。逃げ出したかった。
 彼女から、追いかけてくる運命から。
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