Cry for the Moon
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それからの数日間、喉元まで込み上がった怒りをぼくは持て余しながら過ごした。時間が経つにつれ、感情は鬱積し、強烈になっていった。その結果ぼくは絶えず彼女のことを思わないではいられなかった。今度こそ、もう二度と会わないと固く心に決めた。
久しぶりに気が晴れたのは、サーキットで思う存分走ることが出来た日だった。
その週末は、ぼくが現在参加しているツーリングカー・レースの選手権、第六戦が開催される事になっていた。
自動車レースはほとんどの決勝が日曜日に行われる。だからレーサーはたいてい水曜日の夜サーキットに入り、木曜日の練習、金曜日の公開練習と土曜日の予選を経て、日曜の決勝を迎えることになる。レースは日本全国のサーキットを転戦する形で行われるから、レーサーは西は九州の大分から山口県、三重の鈴鹿、北は仙台と各地を飛び回ることになる。これでぼくは学生という本分もあるわけだから、まさに世界を救うなんて馬鹿馬鹿しいことはやっている暇などありはしない。
遠いサーキットへの移動はそれなりにストレスも感じたりするけれど、今回は東京から一番の近場なのがありがたかった。
ぼくはスポーツバックを下げて更衣室に入った。下着も靴下も耐火性のものに替え、分厚い耐火レーシングスーツを着る。モータースポーツのオン・シーズンは三月から十一月で、特に真夏のレースは過酷だ。こんなにいろいろ着込んだ上に耐火フェイスマスクをつけヘルメットを被ると立っているだけでサウナにでも入っているような気がする。これで時速三百キロにも及ぶスピードの世界で神経をすり減らして戦うのだから、まったくレーシング・ドライバーなんて職業は常軌を逸している。
でも今日は暑さもちっとも苦にならなかった。スエード革のドライビング・シューズを履き、紐を結んでいる時には嬉しくて思わず顔がほころぶのを感じた。耳をつんざくエキゾーストノートは胸中の怒りをかき消してくれた。変わりに新たなレースへの闘志が湧き上がってくる。
マシンのコックピットに乗り込み、ベルトで体をシートに固定する。ワクワクするようなエンジンの響きが全身に伝わる。
ジャッキが外された。メカニック達が手を上げる。ぼくはギアをローに入れてクラッチを踏んだままエンジンをレーシングさせる。ヘルメットに内蔵されたレシーヴァーから合図が来る。
「ゴー!」
マシンはカタパルトから射ち出されたジェット・ファイターのような勢いで飛び出した。ピット・ロードを抜け、シフトアップしながら本コースに出る。走り出してしまうと、もう余計なことなど頭の中から吹き飛んでしまう。ただひたすらドライビングに集中する快感。エンジンの回転は九千に達し、時速は二百キロに近い。このスピードでクラッシュすれば、ほとんど痛みも感じないまま死んでしまえるだろう。
コーナーが近付く。心の中には甘い恐怖が湧く。
五速のままコーナーに突っ込み、首の折れそうなGに耐え、クリッピング・ポイントを過ぎると四速にシフトダウンしてエンジンにパワーを与える。
コーナーから飛び出していく、あの瞬間。緊張の連続の中に血が沸騰しそうな興奮がある。
ぼくはスピードが好きだった。もしかしたら、それによる孤独な位置感覚の喪失が好きなのかもしれない。
予選が終了した。ここ何日かずっとおもりのようにぼくに纏わりついていた無慈悲な運命はどこかへ消えてしまっていた。
ぼくは改めて自分がいかに走ることが好きなのかを思い知った。好きだから、誰にも負けたくない。年齢や性別も関係ない、速い者が勝つこの世界がたまらなく好きだった。
年齢が関係ないというのは正確には間違いだ。どこの世界にだって一応年齢制限というものは存在する。だからぼくは特例中の特例だった。初めてカートに乗って公式戦に出場したときも歳を三つほどごまかしていたのだが、今戦っているツーリングカー・レースだって本来ならば乗れるようになるまで、あと何年も待たなければならないところだ。
だけどぼくは待っていられなかった。世界の終末の予感もあったのかもしれない。タイムリミットが来る前にやりたいことをやり遂げなければ、と思っていた。
だが、まさに特別扱いで契約ドライバーとなったぼくは色々と槍玉にもあげられた。背後で莫大な金が動いたのだろうと、わざとぼくに聞こえるように囁く連中もいる。別に構わない。まったく金がかからなかったと言えば嘘になるし、それに彼らはぼくのレース結果を見ていけばそのうち自然に口を閉じるだろうと思うからだ。
ワークス参戦であれプライベート参戦であれ、レースに多額の資金が必要なのは当たり前だし、資金を湯水のように使って速いマシンを作れば勝てるかといえばそんなに単純なものでもない。高性能で速い車体になればなるほど、ドライバーにもそれを正確に扱えるだけの高度なテクニックが要求される。今年ぼくがチャンピオンになれば、ぼくの事を実力も無しに金の力と容姿のおかげでサーキットを走る権利を手に入れたと吹聴してまわる奴らの考えを、多少なりとも改めさせる事が出来るだろう。
もちろんチャンピオンになるのはそう簡単なことではない。ポイント制で競われるレースは、一戦、二戦優勝したといってもその年のチャンピオンが誰になるのか終わってみなければわからない面白さがある。一回ごとのレースの順位によって獲得したポイントを全てのレースが終了した時点で集計して、その合計得点でチャンピオンシップを争う。一年間を通して高得点を取り続ける困難な仕事を成し遂げたドライバーとチームが、表彰台の一番高い場所に上がる栄誉を与えられる。ぼくが狙うのはあくまでもそこだ。ぼくは自分が決めた事は絶対やり遂げるし、それに自信もあった。今年、主催者特別推薦でデビューしたぼくの成績はこれまで満足のいくものだった。
今日のプラクティスの結果も上々だ。明日の決勝の一番先頭のスターティング・グリッドをぼくは獲得した。
マシンは絶好調、メカニックのみんなの意気も上がっているし、ぼく自身調子が良すぎて恐いくらいだ。これで優勝できなきゃレースなんてやめちまえ、と言われても仕方ないほどだった。
後始末におわれるピット・クルーたちを残して、ぼくは着替えるため更衣室に向かった。ひと気のないガレージの前を通りかかった時、ふと苦しげな人の声を聞いたような気がした。
「誰か、いるの?」
シャッターをくぐり、中に入ると奥に人影があった。うずくまり、苦しそうに喘いでいる。
「大丈夫か?」
思わず駆け寄ってみると―――
その後そこで起こった一連の出来事は、ぼくのこれからの人生を大きく揺さぶることになる嵐のような意味を持っていた。まさかこんなに日に運命が反乱を企てるとは思ってもみなかった。
そいつは突然牙を持った化け物となり、ぼくに向かって来た。とっさに身構えたものの、数秒前までの人間であった姿が脳裏をよぎった。
怯んだ一瞬の隙をつかれて、ぼくはコンクリートの床に吹き飛ばれた。
頭が混乱して事態をうまくつかめない。
床に打ちつけられた背中や肘の痛み。現実だ。
怪物の牙が光る。ぼくは……殺されるのか?
突如、ぼくとそいつの間の空間に現れた光が目を刺した。
「!」
細かな光の粒子が中心に集まっていく。そこに形となって現れたものは……
思わず手を伸ばしかけたその時、ぼくを遮る声があった。
ハッとして振り返ると、そこに彼女が立っていた。
そして、彼女はぼくにその正体を現した。
ぼくの目の前で、海王みちるは戦士の姿に変身をとげた。
全てが終わったあと、ぼくは彼女の告白を聞いた。
ぼくを庇い、怪我を負った苦しげな息の下で彼女は言った。
「あなたにだけは私と同じ道を… 歩んでほしくないの……」
ぼくの夢の中に幾度も現れた、その戦士の姿のままの彼女の頬を涙が伝っていた。