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Cry for the Moon

5



 都内の高速は混んでいた。
 ぼくのバイクはのろのろとした車の流れをぬってスピードを増していく。 真夏の太陽は燃え立つようなオレンジ色の輝きを投げかけながら、天の溶鉱炉へ溶けて沈んで行くように消えていった。
 空の色が群青から深い闇の色に変わる頃には、海の見える湾岸道路まで来ていた。
 さらにスピードを増した。提示板が暗闇の中から現れては一瞬ヘッドライトに照らし出され、一瞬のうちにまた闇の中へ飛び去っていった。スピードメーターの針がじりじり昇っていく。
 ぼくは凶暴な敵意に燃え、車線を右に左に変えた。ちょっとした隙間を見つけては突っ込み、クラクションの抗議にさらに駆り立てられてスピードを増していく。
 ぼくは彼女に言った。“ぼくは素直なんかじゃない。逃げてばかりだ―――”
 星が瞬きだした夜空に向けて、エンジンが吼える。ヘッドライトが行く手の闇を切り裂いていく。そして今、ぼくの前途には別の暗闇が待ち受けている。
 サーキットの出来事から三週間が過ぎていた。
 ぼくはまだ迷っている。
 運命の扉はぼくが生まれたそのときから、少しずつ少しずつ開いていき、今や完全に開け放たれていた。
 風に乗って声が聞こえる。
“さあ、中へ入れ。足を踏み込め……”
 だがぼくは扉の前で躊躇している。いったんその中へ踏み入ってしまえば、もう出口はなしだ。彼女が言ったように、もう二度と元の自分に戻ることは出来ない。
 カーブを抜け、長い直線に出た。
 ヘッドライトの先、まだ見たこともない遠い遠い風の彼方へと思いを馳せた。どれほど速く走れば、ぼくを束縛するすべての鎖を引きちぎることが出来るのだろう。重力の支配も及ばない、空の高みに吹く澄んだ透明な風のように、遠い場所に向かって走り続けて行きたかった。走り続けてさえいれば、いつか望みが叶うと……
 ―――でも、それは夢だ。


 サービスエリアに入り、ぼくはバイクを止めた。広い駐車場の半分くらいは車で埋まっている。レストハウスは大勢の人で賑わっていた。
 8月も半ばで行楽帰りの客のほかに、帰省ラッシュを避け早めに都会を脱出してきた家族連れも多い。駐車場の端で花火までしている連中もいる。
 ぼくは海が間近に見える場所でフェンスにもたれかかっていた。背後を人々がさざめき合いながら通り過ぎていく。
 海をこんなに近くで見るのは久しぶりだ。あの東京ベイ・クルーズからは一ヶ月近くが過ぎていた。
 今夜も満月だった。
 海の上とは違い、ここでは人の立てる様々なノイズが聞こえてくる。ひっきりなしに通り過ぎる車の排気音。バックする車の警告音。楽しそうなおしゃべり、騒ぐ子供たちの歓声、それをたしなめる母親の声。船の上のあのバイオリンの絹糸のような響きは、今ではもう幻のようだ。
 あんなにもしっかりと自分の世界を持っているように見える彼女が、一体どうやってそれを捨てる決断を下すことができたのか、ぼくには想像もつかない。
 彼女の告白は正直言って胸に刺さった。彼女が恐れを知らぬのではなく、恐怖に怯えながらもそれを表に出さず、強い自制と勇気によって耐えている事実はぼくを打ちのめした。
「君は平気なのか? 人殺しなんだぞ!」
 あのガレージでぼくの放った問いに彼女は少しもたじろがなかった。
 その時、それはほんの一瞬のことだったけれど、ぼくは激しい怒りを、憎しみとさえ言っていい憤りを感じた。こいつは、こんな綺麗な姿形をして、心の切れっぱしも持っていないのか。
 そしてぼくは自分の子供じみた正義感には何の価値もありはしないという事を知り、自分の発した言葉に責めさいなまれている。
 使命を果たすということはその人殺しに……それもひとつにとどまらぬ殺人を、この手で犯すということだった。あの一瞬、ぼくが彼女に対して抱いた氷のように冷たい感情―――
 それは世間一般のごく当たり前の常識と、感性と、守るべき仕事や家庭を持つ大勢の善良な人々が、その罪を犯す者に対して抱く感情なのだろう。
 ぼくは確かに今まで次から次へとルールを破って生きてきた。だが、誰しも持っている良心的な本能、言ってみれば人間的な品位は損なっていないつもりだった。目の前で子供が溺れていれば助けるだろうし、誰かが転びそうになっていたら手を貸すだろう。
 けれど、ぼくがその道を選んでしまったら……
 その時はもう、人間としての値打ちが無くなってしまうような気がした。
 彼女はどうしてそれを選ぶことが出来たのだろう。多くの命を救えば、一個の生命を奪った償いになるというのか。そんな馬鹿な話を聡明な彼女が信じているとは思えない。たとえ世界を救えても、その犯した罪の為にぼくたちは永遠に呪われた存在となるだろう。
 そうなったら、残りの人生をどうやって自分と折り合いをつけて生きていけばいいんだ?
 ぼくの前で変身しようとした時の、彼女の姿が忘れられなかった。
 あの、苦痛に耐えているような表情が。

 ぼくの立っている場所から数台先の駐車スペースに派手なオープンカーが止まった。乗っているのは若いカップルでコーヒーでも買うためにちょっと寄ったのだろう、女の子がサイフだけを持ってドアを開けて軽やかに降り立ち、レストハウスへ足早に歩いていく。彼氏の方は大きなボリュームで音楽をかけたまま、シートにもたれかかっている。曲はぼくも知っているロックだった。
 少しかすれたようなせつない男性ヴォーカルの声が「クライ・フォー・ザ・ムーン」と繰り返している。
 その車とは反対側の空いたスペースに大きなファミリーカーが入ってきた。日が落ちてからはクーラーよりも風を入れながら走ったほうが気持ちが良いのか、ウィンドウを全て開けている。こちらは家族連れで子供がトイレに行くためらしい。小さな男の子とまだ若い母親が下りて行ったあと、休日ドライバーらしい父親はタバコの煙をくゆらせながらのんびりラジオを聞いている。
 時報を告げる音がして、ニュースが始まった。お堅い番組で、まず国際的な事柄から順をおってアナウンサーがニュースペーパーを読み上げていく。内容など毎回似たり寄ったりでいちいち聞かなくても分かった。国際的なテロ行為により死傷者は続出している。世界的な著名人の訃報、円と株価の下落。ストライキは頓挫し、飛行機は墜落し、血生臭い戦争は世界のあちこちで続いている。環境破壊は悪化の一途をたどり、政治家たちの間で口汚い論争が演じられ、相も変らぬ地域で貧困と疾病による悲惨な事態が報告されている。
 ぼくは人々に向かって、大きな声で聞いてみたいという衝動に駆られた。ねえ、みなさん、実は世界の終わりはすぐそこまで来ているんですよ。それを回避する方法はたった一つだけ。でも、ねえ、みなさん。こんな世界、誰かの命を犠牲にしてまで救う価値があると思いますか‥‥?
 気が付くと、ぼくは唇を歪めて笑っていた。
 タリスマンは三つだ。たったの三つ。
 戦争ともなれば正義の名のもとに何千人も何万人もの人間が虫ケラのように殺されるではないか。
 ぼくは肘をつき、フェンスにもたれた。ざわめきが聞こえる。
 こんなに大勢の人間が生きている世界で、二人や三人くらい死んだって誰が気にするだろう。
 タリスマンを持っているのは、どんな人間だろうと思った。
 ドライブするときは制限速度を守り、募金をして、ゴミを道路に捨てたりせず、真面目に仕事をして……いつかは幸せになれると信じて生きているような…、そんな人たちだろうか。誠実で、友人たちを愛し、清く正しく、そして周囲の誰からも愛されているような。
 胸が苦しくなった。
 彼らの最期の絶望の呻きが聞こえてきそうだった。
 どうして? 殺されなければならないような悪い事は何もしていないのに……
 フェンスにしがみついていなければ、膝から崩れ落ちてばらばらになってしまいそうだった。
 とてもやり遂げることなんて出来ない。
 そう思った。
 ぼくは腰抜けで、怖じ気づいて運命から必死に逃れようとあがく子供かもしれない。
 でも、とても出来そうにない。
 今日も遠く東京タワーが見えている。東の空には丸く赤みがかかった月が浮かんでいた。東京タワーのイルミネーションは輝く道標のようで、それらはやるせないくらい美しかった。
 ぼくはそれらを見つめていた。
 泣かずにいるのはひどく難しかった。
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