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Cry for the Moon

6



 月はほんの少し高く上り、白みを帯びた輝きを放っていた。
 瀟洒なマンションの前の歩道にバイクを止め、ぼくは建物を見上げた。レンガ色のタイル張りで、建物の周囲には緑鮮やかな植え込みがあった。歩道からパティオへ入り、そこから豪華なエントランスへ続く。普通のマンションとはとは格段にステイタスの差がある、二十四時間セキュリティ・サービス、クリーニングからタクシーの手配までホテル並みのサービスを誇る超高級マンションだ。
 ここへ来るのは二度目、三週間ぶりだ。あの日、サーキットで負傷した彼女をぼくはここまで送ってきた。
 エントランスのロビーで「ここで良い」と彼女は言ったが、ぼくのせいで怪我をしたのだから放って置くわけにもいかなかった。
 彼女の魅力的な顔は青ざめ、一人で歩くのにもふらついている状態だった。
 左手は制服のスカートのポケットに入れたまま、かたくなに出そうとしない。ふらつくたび右手で壁に寄り掛かったりして、必死に倒れまいとしている。ぼくが手を貸そうとしても素直に言うことを聞かなかった。どうやら誇りの問題であるらしかった。
 彼女の部屋は最上階にあった。
 自分の家は都内にあるけれど、ここは絵を描いたりバイオリンを弾くのに没頭したりする時に使う、いわばアトリエだと彼女は説明した。もっとも今はもうほとんどここで生活しているのだけれど、と。ぼくと似たような境遇だ。
 広いフローリングの部屋には黒くてつやつや光るグランドピアノがあった。その向こうにあるイーゼルの上の描きかけのキャンバスや、床に開いたまま無造作に置かれた絵具箱を見ると胸が痛んだ。
 彼女の怪我の手当てをする時は、もっと辛かった。
 構わないで、と言う彼女を説得してぼくは彼女が着替えてくるのを待った。しばらくしてバスルームから出てきた時、彼女は白いバスローブを羽織り、腕の傷は自分で手当てを施してあった。背中の傷に触れぬよう、後ろからそっとローブを脱ぐのを手伝った。彼女の細く折れそうなうなじが髪の間からのぞいて、そこから滑らかに続く背中の曲線に、くっきりと生々しく、赤く裂けた傷が走っていた。
 ぼくのせいだ、と思った。
 ぼくが彼女と怪物の間に立ちふさがったせいだ。ぼくの子供っぽい純真さのツケを、彼女が支払ったのだ。
 危険と隣り合わせのサーキットでは、時折負傷者を見る。骨折して手足がとんでもない方向に曲がった状態や、裂傷による大量出血で顔色が本当に紙のように真っ白になって、担架で運ばれていく怪我人も見たことがある。彼女の素肌に刻まれた傷は、見ていてそれらよりもずっとこたえた。彼女の肌は陶磁器のようになめらかで、無惨につけられた傷がより一層痛ましかった。
 傷を消毒し、抗生物質の散薬を振りかけた真新しいガーゼをそっと当ててテープで固定した。
 もう大丈夫だから、と無理に笑う彼女をベッドに寝かせ、ぼくはキッチンへ行ってグラスに水を汲んできた。そして持ってきた鎮痛剤を出した。普通は医師の処方箋なしでは手に入れられない類の薬だが、ぼくはいろいろと融通の利く立場にある。一般に市販されているものより抜群に効き目がいいし、副作用もない。
 その薬を彼女に飲ませ、それから浴室へ行って冷やしたタオルを持ってきた。傷に障らぬよう、体の半分を下にして横たわっているので額にタオルは当て辛かったが、彼女はおとなしくされるがままになっていた。
「……こういうケガは微熱が出るんだ」
「ありがとう…… でも、もう本当に大丈夫だから」
「君が眠るまでいるよ」
「……とても眠れないわ」
「すぐに薬が効いてくるさ」
 彼女が徐々に眠くなっていき、しかもクリスマスイブの小さな子供のように懸命にそれと戦う有り様をぼくは見守っていた。
 彼女の目が閉ざされ、すぐにまた開かれた。
「あなたに……眠っているところを見られるのはいやだわ……」
「窓の外を見てるよ」
 ぼくは見晴らしの良い窓から見える町並みや湾岸道路の列をなして走る車やその向こうのキラキラ光る海を眺めながら、たっぷり十分間待った。
 彼女は目蓋をぴったりと閉じ、睫毛一本動かさなかった。
 彼女は、これよりもっと深い傷を負ったとき、どうするのだろうと思った。誰かに助けを求めることもせず、一人きりでどう対処するのだろう。彼女は一人きりでこれからもずっと戦い続けるのだろうか。
 ぼくは起こさぬよう、そっと彼女の頬にかかる髪を指でかき上げた。細くて柔らかくて優しい絹糸のような感触だった。
 それから残りの薬をサイドボードの上に置き、水の残っているグラスをキッチンへ運んだ。カーテンを閉めエアコンの調節をして、ドアの前でもう一度彼女の方を振り返ってから足音を忍ばせて廊下へ出た。


 それっきり、今日まで一度も会ってない。
 時刻は九時をまわっていた。訪ねていくには少々遅い時間だったが、ここには彼女しかいないのだから構わないだろうと思った。
 バイクを降りてタイル張りのパティオを通って階段を上り、自動ドアを抜けた。入り口は無論オートロックだ。個々の部屋にTVモニターが付き、インターホンが備え付けてある。インターホンの前に立つと、ボタンを押す前にロビーの奥にあるカウンターのフロント係に声をかけられた。前回、彼女を送ってきた際に具合の悪そうな彼女を見て手を貸そうか、と言った同じ係員だ。明らかにぼくを憶えていたようで、彼女は今日は同じ区内にある本邸へ戻っているようだ、と言った。こんな遅くに、お嬢様に何の用だい?と顔に書いてある。
 ぼくは外に出てバイクのキイを手でしばらく弄んだ。しょうがない、明日にしよう。彼女に話したいことがあったけれど、絶対に今日でなくてはならないという理由はない。だが会えないとなると、どうしても会いたくなった。
 バイクに跨り、キイを差し込むとヘルメットを被る。エンジンが咳のような音を出して轟音をあげてかかった。
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