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Cry for the Moon

7



 夜もまだ宵の口だというのに、その辺り一帯はもう真夜中のような静けさだった。閑静な、通りに街路樹の並ぶ高級住宅街だ。
 目指す場所へは迷うことなく辿り着いた。先刻のフロント係が本邸と言っていたが、まさしくそれは大邸宅だった。
 道なりに延々と高い塀が続く。たぶん随所に赤外線監視装置やモニターが設置してあるのだろう。東京湾クルーズの際、誰かが彼女のバイオリンは時価数億のストラディバリウスだ、と話していたことからしてもどんな豪邸に住んでいようと、どれ程厳重にホームセキュリティをしいていようと驚くにはあたらない。
 正面に高い鉄柵の門があった。門の内側にはガードマンの詰め所まである。モニターがこちらを睨んでいるのを感じながら、バイクを降り、門柱の前に立ってヘルメットを脱ぐとガードマンが中から現れた。
 柵越しに、何か?と尋ねられた。
「海王みちる……さんに会いたいんだけど」
 どきん、と心臓が鳴った。
 みちる、と彼女の名前を口にしたのは初めてだった。
 ガードマンはぼくをつま先から頭のてっぺんまで眺めると、君は?と訊いた。ぼくが名前を告げると、彼はくるりと背を向け詰め所に戻って行く。
 ぼくはこんなお屋敷へこんな時間にアポイントも無しで押しかけた自分の無計画さに、遅ればせながら気付いた。彼女に会ったら最初に何を言えばいいのか、そんな事ばかり考えていて、彼女が深いいばらに守られた眠り姫のごとく高い塀やガードマンやらに幾重にも囲まれた深窓のご令嬢だ、ということを忘れていた。
 第一、ぼくは彼女とどんな関係なのかと訊かれたら答えようがない。学校も違えば、会ったのも三回きりだ。身分証明書を出せ、と言われても学生証など今は持ってないし、たとえ持っていても年齢的にバイクに乗っているのはいかにもまずい。法律的にはまだ公道は走れない事になっているのだ。その上、ぼくは女の子に見られる事は滅多にない。アポ無しで非常識な時間にお嬢様に会わせろと押しかける男という、絶対的不利な状況を客観的に把握して、やばい…と思った途端、ギギ……と音を立てて電動式の鉄の門が内側に開き出した。
 ガードマンが再び表に出てきて、天王はるか様ですね、どうぞそのままお進み下さい、と言った。いともあっさり扉が開いて、拍子抜けすると同時に、ここの警備体制には問題があるんじゃないかと思わないでもなかったが、余計な口をきいて面倒な事になるのも避けたい。黙ってバイクに乗るとぼくは敷地内へ入った。そのまま緩くカーブした車まわしを進む。
 広大な庭だった。遠くまで続く芝生、ライトに浮かび上がる樫や楓の木々、所々にモミの木もあった。バイクのエンジン音を響かせるのは気が引けるような静けさだった。しばらく行くと正面玄関に出た。
 がっしりと建てられ、見事な均衡を保った十九世紀風の豪奢な建物だ。上質の建築物が自然にその景観からにじみ出させる風格をそなえていた。
 玄関前のポーチに、建物と同じくらいの風格と慇懃さを醸し出している初老の男性が立って、ぼくを待っていた。この真夏にかっちりとスーツを着込んでいる。
 彼はバイクのキイとヘルメットをお預かりします、と言った。彼はこの広い屋敷で家令、または執事と呼ばれる役職を担っているらしい。それがいかにもお似合いなクラシカルな外見と年齢だった。
 ぼくは彼に促されて、どっしりとしたオーク材の扉の中に入った。羽目板張りのホールを横切り、カーブした階段を過ぎて、長い廊下を案内されて進む。
 ぼくがあまりに事がスムーズに進むので怪訝な顔をしていると、執事氏はもしぼくが訪ねて来るような事があれば、待たせることなくすぐ通すよう『お嬢様』から言い付かっている旨を、丁寧な口調で説明してくれた。
 彼女が早晩ぼくが来ることを予想していたのだと思うと、きびすを返して帰りたくなった。だがその時、彼が『お嬢様のお友達が遊びにいらしたのはこれが初めてです』と言ったので、やっぱり帰るとは言えなくなってしまった。そのかわり遊びに来たわけでもなければ、ぼくは彼女の友達でもないと言ってやりたかったが、それだとこんな非常識な時刻におしかけている理由が無くなってしまうので、結局黙っていた。
 角を曲がると庭園側が大きなガラス窓になった回廊に出た。庭のライトに広い芝生や木々の列が浮かぶ。建物の端まで来ているようだ。進行方向に庭の半ばに張り出した別棟のような部分が見えた。上から下までゆうに三階分はありそうで、外側はガラス張りになっている。内部の様子は明かりが消してあるのと、こちら側の廊下の照明がガラスに反射しているせいでよく分からない。
 そのガラス張りの巨大な温室のような場所の入口まで案内された。両側に押し開く重いガラスドアだ。内側にも同じような、ただしこちらは濃いブラウンの色付きで中は見えない―――もう一枚のドアがある。
 どうぞ、お嬢様はこちらです、と執事氏が言った。ぼくが尋ねる前に、室内プールだという事を教えてくれた。
 彼女との非現実的な出会いは、もたもたしながらも確実に生身の出逢いに変わりつつあった。
 彼女はぼくが来たことを知っているのか、と訊くと、お知らせしていませんと執事氏は言う。『今夜プールにいる間は誰も邪魔しないようにとのことですので』、と。
 それならぼくが邪魔するのもまずいでしょう、と言うと、『あなた様がお見えになった場合はいつ如何なる時でもすぐ自分の所へお通しするようにと、以前から申し付けられております』と答える。“お嬢様”の言いつけや要望には極力添うよう、心を砕いているのが分かった。案内してもらったお礼を言うと、礼儀正しくお辞儀をして来た道を戻っていった。正直で忠実で献身的人物らしい彼が、少し気の毒になった。ほかにもこの家に長く勤めて、彼女を知る人たちは何人もいるのだろう。
 彼らは彼女が幼い頃から絵に音楽に才能を発揮し、美しく成長していく姿をずっと見守ってきたはずだ。
 だが彼らの大切なお嬢様は、もう二度と彼らの知る少女に戻ることはない。
 喉につかえている後ろめたさの塊をごくりと飲み込むと、ぼくはドアを押し開けた。
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