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Cry for the Moon

8



 かすかな水音が聞こえた。
 ぼくは内側のドアから音もなく滑り込んだ。
 ライトはすべて消灯してあったが、意外に明るかった。思わず立ち止まって高い天井を見上げると、正面の中空に月が輝いていた。高く昇ったせいで少し小さくなったように見える満月が、それと引き換えに鋭くなった青白い光を放っていた。
 月の放つ光は真っ直ぐにぼくの足元まで差し込み、鉄筋の梁の影を細く長く、そしてくっきりと床に落としていた。
 正面のガラス窓は高い天井まで届き、出入り口のあるこちら側の壁面は一段だけ天井が低くなっていて、ギリシアの神殿めいた柱が等間隔に並んでそれを支えている。
 プールは横に二十五メートル程だろうか。蜜のような穏やかな水面がゆらゆらと月の光を反射している。
 月の光を浴びて、彼女は静かに水の中に浮かんでいた。
 仰向けに、ゆったりとしたストロークで腕をまわして水をかく。細い腕が円を描くと、小さな水滴がそれについて宙を舞う。それは月光に一瞬煌き、また静かな水音をたてる。
 泳ぎ慣れているせいだろう、プールの端が近付くと残りの距離を確かめもせずくるりと水の中に潜り、殆ど水飛沫も立てずにターンした。動作は流れるようで、まるで水が彼女本来の住処(すみか)のようだ。
 あれほど素晴らしい音楽を持ち、こんなにも清らかに見える彼女が、自分の顔を泥につけるような惨い決意を胸に秘めているなどと誰が知るだろう。
 壁や柱に水の反射光がゆらゆらと揺れる。それは中に入っていくのをためらうぼくのシャツの胸の上でも揺れていた。
 彼女の持つ静かな世界を壊すことに気がひけた。それはあまりにも調和した一枚の絵のようだったから。
 もうひとつ、声をかける決心がつかないでいるのは、彼女が裸で泳いでいたからだ。彼女は水着を着ていなかった。
 彼女が個人所有のプールでどんな格好で泳いでいようともちろん彼女の勝手だし、彼女もまさかこんな時間にぼくが乗り込んでくるとは予想だにしていなかったに違いない。だから無防備でいる彼女の目の前に突然姿を現せて驚かせるような真似はしたくなかった。
 ――― 驚く?
 彼女はやっぱり驚くだろうか。恥ずかしがって、少し困ったような顔をするだろうか。
 そう思うと少し意地悪な気持ちになった。彼女も最初、ぼくを死ぬほど驚かせてくれたじゃないか。
 ぼくはずかずかとプールサイドを歩いていき、ちょうどプールの中ほどまで戻ってきていた彼女に出し抜けに「やあ」と声をかけた。
 バシャン!と大きな水音を立て、彼女はびっくりしてぼくの方を振り返った。肩の下から水の波紋が広がっていく。濡れた髪が白い額や頬に貼りついている。夜の海を泳いでいたところを人間に見つかった人魚のようだった。
 それでも、瞳を大きく見開いてはいるものの、ぼくが期待したほどには驚いてはいないようだ。すぐにふっと柔らかい表情に戻って彼女は言った。
「私に会いに来てくれたの?」
 プールの内側の壁に反射して、声にエコーがかかって響く。
「怪我は? もういいのかい? 泳いだりして」
            、、、、
「おかげさまで、平気よ。普通より治りも早いの」
「どうして裸で泳いでいるんだい?」
 今度は彼女は答えなかった。
 ぼくは月を見上げた。冷たく冴えた月の光が、矢のように真っ直ぐぼく達の上に降り注いでいる。
「月光浴か」
 詳しくは知らないけれど、そんなおまじないのような話を聞いたことがあった。満月の夜、月の光を浴びて願いを掛ける。なるべく月の光を全身に受けられる姿で。つまり、全裸が一番効果的だということだ。
 月を見ていると、さっき聴いた曲が頭の中で再び鳴り始める。
 クライ・フォー・ザ・ムーン。月が欲しいと泣く子供……。
「どんな願い事をしているんだい?」
 本当は聞くまでもないことだった。
 彼女は答えず、水面に視線を移すとプールの底を蹴った。ふわりと浮かぶように両腕を前に広げ、ゆっくりと水をかいて泳ぎ出した。
 静かな水音だけが響く。
 ぼくはまたしばらくの間、黙って彼女の泳ぐ姿を見ていた。
 見ているうちにつらくなった。
 ここへ入ってきて、最初に目に入った光景は、ぼくにミレーの描いた「オフィーリア」の絵を連想させた。
 水に漂う少女の亡骸。
『ハムレット』のオフィーリアは恋人の狂気と父の死とに心を狂わせ、花輪もろとも小川の流れの中に落ちた。まるで人魚のように川面を漂いながら、祈りの歌を口ずさんでいたという……。
 花々とともに水面を流れつつ、死にゆく娘。
 君はいつか死んでしまう。
 あの時、薬で眠りに落ちた君はあまりにはかなく、ぼくは絶望を予感した。
 いつか君は敵に、宿命に引き裂かれてしまう。
 傷つきながらどれほど懸命に戦っても、その願いは叶わない。もう何をしても手遅れで、世界を救うことなど出来はしない。
「君はバイオリニストになるのが夢だって言ったろ?」
 彼女はふっと手を止めた。
「その夢は諦めたのか。最初から、諦められるような夢だったのか」
「違うわ!」
 水音を立て、彼女はぼくの方を振り向いた。そのまま続きを待ったが、彼女は口を噤んだままだった。
 沈黙が落ちた。
 水面にゆらゆらと月の光が揺れている。夜は満ち、月も満ちてさらに高く冷たい光が増したように思えた。水の底のような月夜だった。
「ぼくは…… 何かに縛られて生きるのは嫌なんだ」
 彼女は黙ったまま、ぼくを見上げた。
「昔からよく言われたよ……お前は女の子なんだからそんな危ない遊びはしちゃいけない、バイクに乗りたいなんてもってのほかだ。あれはするな、これはするな」
 命令されるのは我慢がならなかった。
 ―――お前は戦士なのだから、宿命に従え―――
 胸の奥で燠火のようにくすぶっていた怒りが再び熱くなるのを感じた。昔、世間に対して抱いていた反抗心と一緒になり、心が内側から燃えただれてぼくを憤怒に駆り立てた。
「もっと可愛い服を着ろ、女の子らしくしろ、とかね。ぼくがぼくらしくしていてなにがいけないんだ。誰かに迷惑をかけているわけでもないのに」
 さも正しいことのように固定観念でしかないものを押し付けてくる人たち。自分達のすることが一番正しいと疑いもせず、違うことをする人間を許せない奴ら。ぼくは今まで一度だってそんな連中に負けたりしなかった。
「ぼくの人生はぼくのものだ。誰かが作ったルールや前世から約束された運命に従って生きるなんて真っ平だ!」
 ふいに狂おしいほどの怒りが一気に爆発した。
 世界を救うために、罪もない誰かを犠牲にしなければならないのはなぜだ。
 その誰かを見殺しにする役目を負うのは、なぜぼく達でなければならないんだ。
 確かに世の中は不公平で理不尽にできている。でもたったひとつ、人間には許された自由がある。
 それは生き方を選ぶ自由だ。どんな不幸な境遇に生まれついても生涯を正しく生き抜く人もいれば、恵まれた生活をしていて悪党になる奴だっている。善か悪か、神か獣か人は自由にそれを選ぶ権利があるのだ。その最低限の自由すら、運命はぼくから奪うのか。
 そしてたとえぼく達が自らの手を汚し聖杯を手に入れたとしても、ぼく達には、世界は救えない。ぼく達には聖杯を扱う力など与えられてはいないのだから。
 どこか高い高い闇の上で運命の糸を操る何者かの笑う声が聞こえるような気がする。人殺しの役目だけを押し付けられて他には何も出来ないなんて、こんな理不尽でふざけた話があるか。戦士は他にだっているじゃないか。なぜ、ぼく達だけが汚い仕事を負わなければならないんだ!
「ちくしょう……どうして……」
 怒りのあまり、目の前がくらくらした。真っ直ぐ立っているのがやっとだった。月の光で狂ってしまったような気がした。
 頭の中は沸騰し、なおも血がのぼり続けている。だがぼくは舌も唇も震えてしまい、思っていることの半分も言葉にすることが出来なかった。
「ぼくは……夢を途中で諦めるのは嫌だ……。運命だとか、そんなものに縛られて生きるのは嫌だ……」
 やっと、それだけを言った。
 湖の底にいるような沈黙が訪れた。
 彼女は静かにぼくを見つめていた。海のように深い深い海緑色の瞳で。
 ぼくが叫びだしたくなるほど願っているその気持ちは、もうすでに戦いの道を選んだ彼女には伝わらないかもしれないと思った。彼女の目にはぼくは駄々をこねて泣いている子供のように映るかもしれない。
 彼女が口を開きかけ、ぼくは思わず身構えた。
 彼女は静かな声で、私はあなたのそういう所が好きよ、と言った。懐かしむような目でぼくを見ていた。
「あなたは他の人とは違う。あなたは自分の思った通り行動して周りがどう思おうとまるで気にしない。ふつうはね、世間の圧力に負けて、少なからずまわりに自分を合わせたりするものなのよ。あなたはいつも行く手にある障害物なんてせせら笑って踏み越えて……恐怖なんて感情は持ちあわせてないように見えたわ。強くて、自信に溢れていて、とても自由で……。私はずっと憧れてた」
 それきり、口をつぐんだ。
 ぼくは今夜、決着をつけに来た。二つの道のどちらを選ぶのか。
 彼女に一番聞きたかった事を聞かずに帰るわけにはいかなかった。ぼくは足元に視線を落とした。
「君は…… どうしてそれを選んだんだ」
 こんなひどい運命を押しつけられて、なぜ黙って我慢しているんだ。
「夢も捨てて、誰かを殺さなくてはならなくても、それでもこの世界は救う価値があると本気で信じているのか」
 しばらくしてから彼女が答えた。
「私が決心したのは…… 自分のためよ」
 ぼくは目を上げて彼女を見た。
「この星のために、そこに生きる人々のために、みんなのために―――」
 そこでふっと彼女は唇の端をあげて笑った。
「そんな綺麗事は言わないし、私には言う資格もない」
 皮肉めいた感じもなく、自分を卑下しようとするのでもない、淡々とした声だった。
「確かに一時期は…… こんな、犯罪者が溢れて暴力と不公平が許されている世界なんて、滅び去るのが運命ならそれでいいと思ってた。私の知った事じゃないって。……でもね、それはやっぱり嘘……」
 彼女は両手を水面から出して広げ、少し悲しげにそれを見下ろした。
「バイオリンを弾いたり、絵を描いたりしているとね、自分を偽ったりしてはいけないの。そういうごまかしは全部曲やキャンバスに現れてしまうものなのよ。自分の中のずるさや、目を覆いたくなるような醜い部分をちゃんと見据えて正直に向かい合わなければならないの。そうしなきゃ、小手先だけの薄っぺらなものしか作り出すことができない……」
 わかる?と言いたげな視線を彼女はぼくに向けた。
「こんな世界滅んだって構わないって思うのは嘘よ。だって、きっと後悔するもの。その時が来たら。どうして私は自分のするべき事をしなかったんだろうって」
 きっぱりと一言一言を噛み締めるように言った。
「だから私は運命に屈服したわけでも、殉教者の心境になったわけでもないの。私の好きな人が死んでしまうのはいや。見慣れた空や大地がなくなってしまうのもいや。たとえ、この世界が残忍な行動も辞さない選ばれた人間にしか守れないものであっても、やっぱりなくなってしまうのはいやよ。……だから私は私のためにこの道を選んだの。誰のせいでもない。ましてや運命のせいじゃないわ」
 静かな声で、彼女は独り言のように言った。
 月の光が彼女の上に降り注いでいた。
 肉を削ぎ落としたばかりの骨のように冷たく光る真実を照らしていた。
 彼女があの破滅の幻影を描かずにはいられなかった理由もふいに理解できた。それは自虐的な感情からでも余裕でもない、目を逸らすことなくそれと向き合った結果なのだ。
 ぼくが彼女に対して抱いていた不穏な感情の正体も、今なら分かる。
 それは嫉妬だった。むごたらしい運命に立ち向かっていくことが出来る強さへの。だからぼくは何日も何日も彼女に会いに来るのをためらっていた。ぼくは彼女の傷を見るのが恐かった。強く戦い続ける彼女の前で、自分が逃げることばかり考えている臆病な子供だと思い知らされることが恐かった。
 彼女が水の中をゆっくりとこちらへ歩いてきた。
 プールサイドに手をつくと髪の毛一本ほどのためらいも見せず軽やかに水の中から抜け出した。
 大義名分を振りかざしたりもせず、使命なのだから仕方がないと言い訳もしない彼女。いつかの夜に見た桜の花びらのように毅然としていた。散っていく桜の花びらの命のように潔く、美しかった。
 月明かりの下、彼女はぼくの方へ向かって歩いてくる。ピアスと水滴だけを身に纏い、赤い絨毯の上を歩く貴婦人のように臆することなく。
 ぼくは背後にあるデッキチェアに掛けてあったバスタオルを取って広げ、彼女に手渡した。
「ありがとう」
 白いローブの袖に腕を通そうとする彼女の背中に、薄い傷跡が見えた。思わず手を伸ばして触れると、彼女は動きを止めた。傷はすっかりふさがって、薄いピンクの新しい皮膚でできたかすかな筋になっていた。もう何日かすれば完全に消えてしまうだろう。
 彼女はぼくの心を見透かしたように言った。
「あなたのせいじゃないわ。言ったでしょう、私は私のためにやっているのよ」
 ぼくは言うべき言葉が見つからなかった。どう決着をつければいいのかも分からなかった。ローブを羽織り、タオルで髪を拭く彼女を見つめながら、ぼくは行き場をなくした子供のように立ち竦んでいた。
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